【お芋文庫】「テナント募集カフェ」

とてもオシャレな町の
郵便屋さんと八百屋さんの間の小道を入って
ずっとずっとまっすぐ進んだ先に
小さな小さなカフェがあって、
そのカフェの珈琲がとっても美味しくって
すごくお気に入りなのです。『三日月カフェ』と言うお店です。

ある日の朝。
私はそのお気に入りカフェを訪れました。
すると。
『三日月カフェ』という看板が
『テナント募集』という看板になっていて
ずいぶんと変わった店名にしたもんだなと思いながらも
いつものようにドアを開けて中に入ろうとしたら
ドアが開かないのです。
あらま開店前だったかな…
それとも今日は定休日だったかしら…と
しばらく茫然と立ちつくしたのち、
諦めて帰ろうとしたところ
「あらいらっしゃいいらっしゃい」と
割烹着姿のおばちゃんがやってきて
「今開けますからね、ちょっと待ってね」
と言いながら鍵の束を取り出して
このお店のドアの鍵を探し始めたのです。
でもなかなかお店の扉に合う鍵が見つからなくて
もういいですよって言おうとしたんですが
おばちゃんが「ごめんね。すぐ見つかるから。おかしいわね」と
一生懸命に鍵を探してくれているので
少し待ってみることにしました。
手伝うにも手伝えない状況なので
ひたすらおばちゃんが鍵を探しているのを
じっと見ているしかなかったんですが
5分か10分くらいで
「あった。これだわ」とおばちゃんが1本の鍵を束からはずしました。
「はい。これがここの鍵。あとはよろしくね。私は次の現場があるから」
そう言って割烹着姿のおばちゃんは
忙しそうに次の現場へと向かって行ったのでした。
次の現場っていったいどこへ向かって行ったのかわかりませんけれど
きっと私と同じように
どこかでドアが開かなくて困っている人が居て
おばちゃんはその人の元に駆けつけ
あの鍵の束から
そのドアを開ける鍵を探しだして渡すのだろうなと思いながら
去っていくおばちゃんの背中をながめました。
やがておばちゃんの姿が見えなくなり
ああそうだ、鍵を渡されたのだったと思いだして
その鍵を鍵穴に差し込んでみると、
カチャリと音がして、ドアが開きました。
店内はいつもの三日月カフェでした。
三日月型のテーブルに、背もたれが三日月型の椅子。
窓も三日月型ですし、壁にかかる時計も三日月型。
ああ、やっぱりこの店は落ち着くなあと思いながら
私はいつも座る窓際の席に座りました。
でも、お店のオーナーさんが居ません。
鍵が閉まっていたのですから、当然です。
あれ?これってもしや不法侵入?
やっぱり今日は定休日だったんじゃないかしら。
それを何か勘違いしたあのおばちゃんが鍵を開けてくれちゃって
私は今、ここにいるのかも…、と思いました。
定休日に掃除に来た業者の人と間違えたんだろうか。
そうかもしれない。
んじゃあ掃除しよう。
せっかく来たのだし。
確かカフェのトイレの水道の下に
掃除用具が入っているバケツを見た覚えがあります。
私は席を立ってトイレへと向かいました。
やっぱり水道の下にブリキのバケツがあって、
いくつかの洗剤のボトルとタワシ等が入っていて
雑巾が2枚バケツのふちにかけてありました。
私はとりあえず綺麗な方の雑巾で窓を拭き始めました。
私の家から三日月カフェまでは電車で4,5時間かかります。
歩いて5分の距離にあるのですが
家とカフェの間に、ものすごく深い谷があって
電車に乗って迂回しなければならないのです。
“歩いて5分”というのは正しい言い方ではないかもしれません。
正確には“歩ければ5分”と言うべきなのでしょう。
でも歩いて5分の距離に、この素敵なカフェがあるというだけで
私はとても嬉しい気持ちになるのでした。
天気の良い日は私の部屋の窓から
三日月カフェの淡い黄色の屋根が見えます。
天気が悪い日は大概霧が立ち込めているので何も見えません。
電車に4,5時間乗るのは結構大変なので

いつも1泊旅行の準備をしてきます。
今日も、その準備をしてきました。
三日月カフェの近くに月見荘という旅館があって
カフェで飲食したレシートを持っていくと
300円くらいで泊まれるのです。
三日月カフェの珈琲は1杯8000円ぐらいするので
月見荘に宿泊してこそ
元が取れるというシステムになっています。
・・・元が取れるなんて言っちゃいけませんね。
三日月カフェの珈琲は8000円の価値があります。
コーヒー豆を一切使わずに淹れる珈琲。
カフェのオーナーさんが毎日
色んなところから集めてきた
古い物語や悲しい気持ちや
熟れすぎた果実や壊れた時計や
甘酸っぱい青春、乾燥させた水ようかん、
鳴らないオルゴール、フラミンゴの桃色の溜息、
とにかくありとあらゆる色んなものを集めてブレンドし、
コーヒーを抽出させるのです。
あんなことができるのは、
三日月カフェのオーナーか、
森の中で怪しげなスープをぐつぐつ煮込む魔女
ぐらいでしょう。きっと。
あの珈琲の香りを思い出しながら、
私はキュッキュと窓を磨きました。
しかしオーナーさん今日は来ないのでしょうか。
定休日だとしたら、来ないのでしょう、きっと。
そうなると三日月カフェの珈琲が飲めないどころか
お店のレシートがもらえません。
レシートが無い場合の月見荘の宿泊料金を知りません。
10万円ぐらいするかもしれません。
そんなに手持ちがありません…。
これは困りました。
お店が開くまでここで過ごしていても良いでしょうか?
一生懸命掃除をしていれば
迷惑にはならないのではないでしょうか。
都合のいい考えでしょうか。
まあいいか。
仕方無い。
いいってことにしちゃいましょう。
だいぶ時間が経ち、もうお昼です。
かなりお腹が空いてきました。
飲食店に居るのにお腹が空いたままだなんて。
飲食店というのは動かす人が居ないと
役に立たないのだな、と当り前の事に気づきます。
私は料理というものは全くできませんので
一旦ここを閉めて何か食べ物を買い出しに行くか
どこか別のお店でごはんを食べてこなければいけません。
いけませんってことはないんですが
空腹のままずっと掃除を続けるのはかなり苦痛です。
やはり、食べにいかなければいけません。
掃除用具を片付け、手を洗うと、
このお店の鍵を持ってカフェを出ました。
ちゃんと、鍵をかけます。
私のせいで泥棒に入られたら大変ですから。
鍵を託された以上、戸締りはしっかり。
三日月カフェのすぐ近くには
お店は全くありません。
住宅か、空き地か、見張り塔か、池か、
何を作っているのかわからない工場など
そんなものばかりが立ち並んでいます。
ずっとずっとまっすぐの道を戻って
郵便屋さんと八百屋さんのところまで行くと
その近くにいくつかのお店が
あったように記憶しています。
私はお腹をぺこぺこさせながら、
食べ物を探し求めて歩きました。
金物屋さんがあって、
写真屋さんがあって、
骨董品屋さんがあって、
靴屋さん。
傘屋さん。
ダンス用ドレス屋さん。
文房具屋さん。
武器防具屋さん。
貸しスタジオ。
囲碁・将棋クラブ。
花屋さん。
本屋さん。
あれ。
あれれ・・・。
お店は沢山あるのですが、
食べ物を売ってそうなお店がありません。
唯一食べ物を売っているお店と言えば

八百屋さんだけのようです。
私は仕方なく来た道を戻り、
八百屋さんで買い物をすることにしました。
「ごめんください」
「はい。いらっしゃいませー」
「料理をしないで食べられるものが欲しいのですが。」
「うーん。キュウリ、トマト、レタス、ぐらいかなあ。」
「サラダみたいなラインナップですねぇ。」
「まあ仕方無いよねえ。料理しないってなるとねえ・・・」
「じゃあそれを下さい」
「何個ずつかな?」
「おなかいっぱいになるぐらい。」
「このぐらいかな?」
「はい。」
「470円でーす。」
ちゃりんちゃりん
「まいどあり!」
「あの、すみません。」
「ん?どうした?野菜足りない?」
「いえ、あの…
このお店と郵便屋さんの間の道を
まっすぐまっすぐ行ったところにある
『三日月カフェ』ってご存知ですか?」
「ああ。知ってるよ。
でも少し前につぶれちゃったみたいんだよね。」
「え!?つぶれた???」
「そうだよ。“テナント募集”って看板が出てたもの。」
「あれってお店の名前が変わっただけじゃないんですか?
だって、店内いつも通りでしたよ。」
「いやぁ、“テナント募集”なんて店の名前つけないでしょ~」
「そうですかねえ?
三日月カフェのオーナーさんのことだから
テナント募集カフェもありえるかなって思ったんですけど。」
「そうだったらおもしろいけどねえ。
つぶれたんだと思ってたんだけどなあ。あはは。」
八百屋のおじさんとそのような会話を交わし、
私は紙袋に入った野菜を抱えて
三日月カフェに戻りました。
鍵を開けて中に入り、
買ってきた野菜を水道の冷たいお水で洗いました。
料理はできませんが、洗うことはできます。
トイレの水道の水でも良かったのですが、
気分的にやはりお店のカウンター内の流し台の水で洗いました。
キュウリをポリポリ。
トマトをガブガブ。
レタスをシャキシャキ。
味が足りないんじゃないかと心配でしたが、
とても美味しい新鮮野菜ばかりでしたので、
何もつけずに食べても美味しいです。
買ってきた野菜の半分ぐらいを食べたところで、
空腹はおさまりました。
というか、お腹いっぱいです。
さて、掃除の続きでもするか。と思ったのですが
このお店、とても綺麗に片付いていて
掃除するところがあまり無いのでした。
何しよっかなぁ。
うーん。
眠くなってきた・・・
お昼ごはんを食べた後というのは
眠くなるものですよね。
今まで『お昼ごはんには眠り薬が入っているのだ。』
と思っていましたが
今日のお昼ご飯は買ってきた野菜を洗って食べただけ。
眠り薬を入れた覚えはありませんし、
八百屋のおじさんがコッソリ振りかけていたとしても
洗った時に流れ落ちているはずです。
もしかしたら“水に強い眠り薬”ってのがあって
それを振りかけていたんだったとしたら・・・むにゃむにゃ。
色々考えているうち、私は眠ってしまいました。
どのくらい眠っていたのかわかりませんが、
何やら物音がするので、目が覚めました。
「あら。起きちゃいましたか。」
誰かの声がします。
突っ伏して眠っていた私は、
むにゃむにゃと顔を上げました。
カウンターの向こうに、三日月カフェのオーナーさんが居ました。
「あ。オーナーさん。すみません。私。ここに…」
事情を説明しなければ怪しまれると焦った私は
うまく言葉が出てこなくてモゴモゴしてしまいました。
「お客さん、何度か三日月カフェに来てくれてたよね。
どうやって店内に入ったんだろうって怪しんだけど
良く来てくれる方だから怪しくはないんだろうって思ってねぇ。
強盗とかカフェジャックとかじゃないですよねえ。」
「ええ。違います違います。
三日月カフェに珈琲を飲みに来たんですけど
閉まってたから困ってたら
鍵の束を持ったおばさんが鍵開けてくれちゃって
でも誰も居ないから定休日かなって思って。
掃除したり野菜買ってきて食べたりしてたら
眠くなって寝ちゃってました。すみません。。。」
「ああ。いえいえ。大丈夫ですよ。そうでしたか。
その鍵おばちゃんは
この町中のあらゆる鍵を持ってるんですよ。」
「え?あらゆる鍵を、ですか…?」
「そうなんです。あのおばちゃんは、あらゆる鍵を握ってる。
いわゆるキーパーソンってやつなんですね。
この街で何か事件があったら、
あのおばちゃんに聞けば
何かしら事件の鍵を握ってるんですよ。」
「それっておばちゃん犯罪に絡んでるんじゃ…?」
「いえ。違うんですよ。
鍵おばちゃんとか呼んじゃってますけど、
彼女はこの町の町長さんなんです。
あらゆる鍵持ってるけど開けるべきドアしか開けないし
何も問題は無いんです。とっても安心安全。」
「不思議な町ですねぇ。」
「まぁ、確かに不思議な町長さんですね。
あ、そうそう。
うちの店、営業時間が変わったんですよ。店名も。」
「あ。やっぱり、あの“テナント募集”って
お店の名前ですよね?つぶれたんじゃないですよね?」
「はい。つぶれてませんよー。
つぶれたんだなって思って帰っちゃう人も居るんですけどね。
ちょっと身をひそめたくなったもので、
テナント募集カフェってのを深夜にこっそり営業してるんです、今。」
「深夜にやってるんですか?」
「そうなんですよ。深夜2時オープン。翌朝5時閉店。
たったの3時間しかやっていないんです。
珈琲の材料集めに時間かかるんですよね、結構。」
「そんな時間だと、お客さん来ないんじゃ…」
「それがね。来るんですよ。
眠れないお客さんが夜な夜なうちの店にね、
珈琲を飲みにくるんです。おもしろいでしょ。
町中の人々が寝静まった
まっくらーい夜にまっくろーい珈琲を飲むと
とっても美味しいんですよ。
珈琲って目を覚ます飲み物だけど、
うちの店は珈琲豆使ってないですからね。
お客さんの眠れない悩みとか、そういうの聞いてあげてね、
それを他の色んな原料とブレンドして珈琲にしてあげるの。
お客さんはそれ飲むと不思議と心が落ち着いて
良く眠れるんですねえ。
真夜中で町はまっくらだし、
近所の人はパジャマ姿で飲みにきますよ。」
「へえ~。おもしろいですねえ。」
窓の外を見ると、だいぶ暗くなってきていました。
いつのまにか、もう夜です。
「暗くなってきましたね。電気つけましょうかね。」
オーナーさんは、パチンパチンと電気のスイッチをつけました。
ほわほわとした三日月色の明かりが
お店のあちこちに灯ります。
「お客さん、谷の向こうから来てるんでしょ、旅行カバンだし。
まだ開店時間までだいぶありますし、
先に月見荘泊まって、夜中こっそり抜け出して
良く眠れる珈琲飲みに来て下さいよ。」
「あ、でもレシートが無いと割引が…」
「そうか。月見荘はうちのレシート無いと1泊10万円だからな。」
やっぱり…。
「はい、これ割引券。これ出せば大丈夫だから。」
小さなメモ用紙にオーナーさん直筆で
「月見荘割引券」と書いてあります。
適当な感じだな・・・いいな。
私はその割引券を握りしめて、
月見荘にチェックインしました。
そういえばお昼ごはんは生野菜しか食べていません。
おなかが空いてきたので、
月見荘で晩御飯を食べました。
月見うどんを食べました。
おいしいおいしい。
まだ布団に入るには早い時間ですが、
深夜2時に起きることを逆算すると
そろそろ寝ておいた方が良さそうです。
大浴場で入浴している間に、早めに布団を敷いてもらいました。
さて、眠りましょう。
…んんん。
眠くない。
眠れない。
眠くない。
眠れない。
眠くない。
…と、繰り返しているうち
深夜2時になってしまいました。
テナント募集カフェ開店時間です。
行ってみましょう。行ってみましょう。
月見荘の浴衣で行くことにします。
テナント募集カフェは、
まっくらな町の中にぼんやりと浮かぶように
明かりを放って営業していました。
ドアを開けると、にっこりとオーナーさんが迎えてくれました。
「いらっしゃい。」
「こんばんは。」
「浴衣素敵ですね。月見荘のですよね。」
「あ。はい。
本当に布団から抜けだした格好で来ちゃいました…」
「珈琲で良いですか。」
「はい。お願いします。
ここに来るのが楽しみで全然眠れませんでした。」
「そうでしたかぁ。じゃあぐっすり眠れるように
美味しい珈琲淹れますからねぇ。
あとトマトとキュウリとレタスがあったんで、
野菜サンドイッチ作っておきましたよ。」
「こんな夜中にサンドイッチは…」
「大丈夫ですよ。野菜ですもん。
夜中に食べるサンドイッチは格別に美味しいですよ。」
そう言ってオーナーさんは
一口サイズに切られたサンドイッチを出してくれました。
「いただきます……美味しい。。」
「でしょう。パンも自家製ですからね~」
オーナーさんはさっきからガタンゴトンと
何やら珈琲を淹れる準備をしています。
普通の珈琲の淹れ方としては
ありえない感じの物音です。
何も知らない人は
引っ越し作業でもしているように思うかもしれません。
ガタッ。ゴトゴトゴト…
何を配合しているのでしょうか。
サンドイッチをつまみながら
珈琲を淹れる様子を眺めていますが
オーナーさんはお店の奥に入って行ったり
出てきて何かを叩いて砕いたりしています。
「お待たせしました。当店オリジナルの真夜中ブレンドです。」
ふんわりと湯気がのぼる
まっくろい珈琲が運ばれてきました。
「いただきますー。」
にがーい。いや、あまい?酸味も少し。
ウウウム。絶妙なブレンドです。美味しい。
「今日は良い感じの海のバターが採れましてね。」
「海のバターって何ですか?」
「海水をぐるぐる回して作るんですよ。」
「海水からバターなんて作れるんですか?」
「僕は作り方知らないですけどね、
トラがぐるぐる回ってバターになっちゃうのと
同じ原理で作ってるみたいです。」
その原理も良く分からないけれど
このお店の珈琲の淹れ方も良くわからないし、
まぁそういうもんなんだろうと思う事にしました。
「そうなんですかぁ。コクがありますよね。」
「そうそう。コクが深まるんだよねぇ。
色んなものぐるぐる回してバター作りたいねえ。
観覧車とか高速で回したら
カラフルなバターができるのかもしれないねえ。」
「そうですねぇ…ふぁぁ」
本当に珈琲を飲んだら眠くなってきてしまいました。
「お。お客さん、来てますね。睡魔。」
「はいー。ごちそうさまでした。またきます。
美味しかったです。」
「今度は悩みとか愚痴とか持って来てくれていいからね。」
「はーい。」
支払いを済ませ、月見荘の自分の部屋に戻りました。
ぐっすりぐっすり眠りました。
とても良いいちにちだったように思います。
深い谷の向こう側から、この不思議な町長さんの居る町に
引っ越してくるのもいいかもな、と思いました。