【お芋文庫】「喫茶店ごっこ」

ものすごく落ち込む出来事が立て続けに起き、ぷつんと糸が切れたように何もする気がなくなってしまった。2年ぐらい続けていた会社も辞め、通勤に便利な場所にあったアパートも引き払い、少し都心から離れた場所に引っ越しもしてみた。環境をガラリと変え、これで心機一転がんばれるかなと思ったが、気分が沈んだまま、次の仕事を探す気にもなれず、貯金を崩しながら無職ライフをなんとなく送ってしまう、という結果に陥った。

このままダメ人間になっていくのだ・・・と、ベッドに寝転がる。目をつぶり、ベッドに沈み込んでいくイメエジをする。ずぶずぶと底なし沼に沈んでいくイメエジ。このベッドは底なし沼だーーー。・・・と、底なし沼ごっこをしていたある日の午後。テレビの占いコーナーで「今日のラッキー星座、第一位は・・・・・・かに座のアナタ!」というのが聞こえた。ああ、わたし、かに座だっけ・・・。テレビをチラリと見る。「かに座のアナタは運勢絶好調!散歩に出てみると、イイコトあるか も!」へぇ・・・。底なし沼ごっこから、少し浮上する。必死に泳ぐ蟹。やがて陸地へ!

「散歩・・・行ってみるか。」

家の外に出るのが何日かぶりだったので、シャワーを浴びたり、歯を磨いたり、着る物をみつくろったりしていたら、家を出るのが夕方近くになってしまった。運勢絶好調なのは何時まで、とかあるんだろうか・・・。そんな事を考えつつ、久々に家の外に出た。この街に越してきてすぐ、少しだけ駅前は散策した。なので、今日は駅とは反対方向に進んでみる。敢えて、店がありそうも無い住宅地の方へ・・・。10分ぐらい歩くと、川沿いに出た。綺麗に舗装された、小さな川。川沿いをのんびりと歩きながら、水面を眺めたり、草っぱらの虫を観察してみたりする。なんだか少しずつ気分が晴れてきた。単純なことなんだなあ、と思う。さっきまで底なし沼ごっこしてたのに。やっぱり家の中にずっと居るってのは良くないのだなぁ。だんだん日が傾いてきた。夕日がきれいだな。

たまーに住宅街の中にポツンとクリーニング屋さんがあったり、生活雑貨と食品を売っているお店は見かけたが、川沿いをずっと歩いていてようやく喫茶店を見つけた。あったあった。飲食店。少し休憩していこう。ホッとしてお店に近づいていく。
「喫茶せせらぎ」と、看板に書いてある。川沿いだからせせらぎかぁ、なんて思いながらドアを開けてみる。小奇麗にしてあるけれど、古い建物のようで、ドアがギギィと音をたてた。鈴とか音が鳴るものがドアについていることは良くあるが、このお店はギギィしか鳴らなかった。
ドアから半身出して店内を覗いてみたが、誰もいない。お客さんも、店員さんも。もしかしたらお昼と夜の間の休憩時間だったのかもしれない。でも、ドアには営業中のプレートがかかっている。
「すみませーん・・・」
奥に誰か居ないかと、店内に入り、カウンターの方に声をかけてみた。しかし、反応はない。
店内を見渡すと、とても居心地のよさそうな内装で、良い感じだった。珈琲でも飲んで行こう。美味しそうなメニューがあったら、晩御飯をここで食べていくのもいいなあ、なんて思いながらとりあえずカウンターの椅子に座ってみた。メニューらしきものを見つけ、開いてみる。“せせらぎプレート”というのがイチオシのようだ。写真入りラミネートカードがメニューに挟まっていた。喫茶店なのにプレートって何かカフェみたいで珍しい。いろんなものを少しずつ食べられるプレート。ミニデザートと、珈琲・紅茶付き。コレに決まりだなぁ~と思いながらも、メニューのページをちらほらと眺めてみる。デザート類も充実してるし、時々来るのに良いかも。家から少し遠いけど。

5分、10分くらい経っただろうか。一向に誰も出てくる気配が無い。トイレにでも行っているのかも、と思ってずっと待っていたが、遅すぎるような。。カウンターに身を乗り出して奥の方を覗いてみる。のれんがあって、奥が家になっているようだが、さっきから人の気配が全くしない。

カウンターの中を覗いてみると、ガスがつけっぱなしになっている。何やら美味しそうなスープがコトコトと煮込まれているようだ。人がそばについているならいいけど、誰もいないのにつけっぱなしは危ないなあと思い、カウンターの中にそっとお邪魔して、ガスを消した。いろいろと食材も出しっぱなしだったりして、ついさっきまでディナータイムの下準備してました、って感じなんだけど・・・誰もいない。

カウンター奥ののれんをめくり、「すみませーん」と声をかけてみる。でもやっぱり、何の反応もない。困ったな、また日を改めて出直そうかな。そう思ってカウンタ ーから出ようとした時、ギギィと音がして入口のドアが開いた。
「こんばんは~。あれ?マスターは?新しいバイトの子?」
仕事帰りか、営業中か、わからないけれどスーツ姿のサラリーマンの男の人が入ってきた。
「あ、あの。私、さっき初めてこのお店入ったんですけど、店員さんが誰も出てこなくて・・・」
「とか言って・・・マスターなんでしょ?化けるの上手なんだから。頭の上に葉っぱ乗ってるよ」
「葉っぱ?」
思わず私は頭に手をやった。
「あはは。うそ、うそ。トイレにでも行ってるんじゃない?」
「そう思ってさっきから10分くらい待ってるんですけど、奥に呼びかけても誰も出ないし・・・」
「とりあえず、お水もらえないかな?喉が乾いちゃって・・・」
「お水・・・ですか。これでいいのかな・・・」
私は目についたお冷グラスに銀色の冷水ポットからお水を注ぎ、サラリーマンが座ったテーブルまで運んで行った。飲食店のアルバイトは学生時代にやったことがある。なんか久し振り。この感じ。
「珈琲、淹れられる?・・・あ、俺この店の常連のヤマギシね。ここのマスターからは、ヤマさんって呼ばれてるから。いつもね、このぐらいの時間に来るの。珈琲飲んで、新聞読んで、マスターと雑談して、いかにも残業してきた感じの時間にね、家に帰るのさ」
ヤマさんは新聞を広げてくつろぎ始めた。
「え。勝手に珈琲とか淹れちゃだめじゃないですか・・・?」
「大丈夫だよぅ。俺んちみたいなもんだし、ここ。お姉さんは名前、何さん?」
「おのでらみどりです。」
「みどりちゃん!いいね。いい名前。珈琲ひとつ、よろしくね。みどりちゃん。」
相変わらずヤマさんはふんぞり返ったまま新聞を読んでいる。
珈琲・・・淹れられなくもない。淹れてみようか。。マスターが戻ってきて怒られそうになったら、ヤマさんのせいにすればいいや。へへへ。

私は喫茶店ごっこ気分で珈琲を淹れる準備をした。喫茶店には良く行くから、淹れる手順なんかは見よう見まねだけれど大体わかる。お湯を沸かして、カップを温めて、珈琲1杯なら、豆はスプーン1杯。あ、自分の分も淹れちゃおう。2杯・・・と。
せっせと珈琲の準備をしていると、入口のドアがギギィとなった。マスターさん・・・?
「こんばんはー。あ、ヤマさん、どうも~。あれ?マスターは?この方はバイトの方???」
違ったみたい。ヤマさんよりは随分若いけれど、やはり常連さんのようだ。
「なんかね、マスター大きいほうみたいで・・・。この子ね、みどりちゃん。今、珈琲淹れてもらってんの。なんか手際良いからこの店乗っ取っちゃえそうだよ。さっき初めてココ来たばっかりみたいなんだけどね。」
「あ、どうも。はじめまして。おのでらみどりです。」
「みどりちゃん。はじめまして。僕、イトウです。マスター、トイレにこもってんの?」
「なんか、もう30分くらい前から待ってるんですけど・・・戻って来ないんです。・・・あ、いま珈琲淹れてるんですけど、イトウさんも珈琲で良いですか?2杯分用意してたところなんです。ヤマさんの分と。」
「ありがとう。んじゃいただきます。せっかくだから2杯分を3等分して3人で飲もうよ。」
「あ、そうですね。お言葉に甘えて、私もいただきます。マスターさん、早く戻られると良いんですけど。。」
イトウさんはソファ席には座らずに、カウンター席に座って私が珈琲を淹れる様子をずっと見ていた。
「手際いいね~。この店、ほんとに乗っ取っちゃえば?」
イトウさんは、気さくなお兄さんって感じ。30代前半くらいだろうか。
「いいですねー。こんな素敵な喫茶店、経営してみたいです。」
「あ。スープあるじゃん。」
イトウさんがガス台を覗きこんで言った。
「そのスープね、マスターが冷蔵庫の食材整理する時に作るやつなんだよ。メニューに載ってないの。時々しか無くてさ、タイミング良く来た常連客だけが飲めるスープなんだよ。僕、それももらおうかな。ヤマさんも飲みません?スープ」
「そうだねえ。俺は家帰ったら晩御飯待ってるからねぇ。少しだけもらおうかな。」
ヤマさんが、新聞から顔を半分だけ覗かせて答えた。
「このスープ、私が来たとき火にかけてあったんです。危ないかなと思ってさっき火を止めたんですけど・・・おかしいですね。マスターさん、すぐ戻ってくるつもりだったんでしょうけど、どこ行っちゃったんですかね・・・?おうちの中って、誰もいらっしゃらないんですか?」
「そうなんだ・・・どうしちゃったんだろ、マスター。家の中には誰も居ないんじゃないかなあ。マスターの奥さんは海外で仕事してて、たまーに日本に帰ってくると手伝ったりしてるけどねぇ、帰ってきてるって聞いてないし・・・。娘さんも息子さんも家出ちゃってるから一人暮らしなんだよね、マスター。家ん中で倒れてるとか無いよね?僕、ちょっと見てこようかな。」
イトウさんがカウンター席から降りてカウンターの奥ののれんをめくって覗き込んでいる。
「おーい。マスターーー!イトウでーす!こんばんはー!お邪魔しますよーーー。」
イトウさんは、あれこれ叫びながら、靴を脱いで家の中に入って行った。
私がスープを温め、丁度良さそうな食器を出してよそっていると、イトウさんが戻ってきた。やはりマスターは居なかったようだ。
「やっぱ居ないよ。ひととおり見てみたけど。どの部屋も電気消えたままだし、さっきまで店に居た感じなんだったら、どこかの部屋で倒れてるってことも無いだろうし。お店のトイレにも居ないんだよね?」
「あ。見てなかったです。ヤマさん、見ていただけますか?」
「ああ。ここ?」
山さんが新聞を畳み、店内のトイレのドアを開けた。
「誰も居ないよ。どこ行っちゃったんだろうねえ、スープ火にかけっぱなしだったなんて、危ないねえ。」
「珈琲、ちょっと量少なめですけど、どうぞ。あとスープ。」
私が珈琲とスープをお盆に乗せて、ヤマさんの席まで運ぶ。
「ん。ありがと。おお、うまそうじゃない、このスープ。珈琲も、いい香り。上手だね。」
「ありがとうございます。はい、イトウさんもどうぞ。私もお隣で一緒にいただこうかな。」
カウンターに珈琲とスープを2つずつ並べた。私もカウンター席に座って、珈琲をひとくち飲んでみる。
「あ、おいしい。」
「スープも、おいしいですよ。僕、家で仕事してんです。フリーでデザイナーのはしくれみたいなのしてて。一人暮らしなんで、良くここに晩御飯食べにくるんですよ。」
「そうなんですか。私は最近ここの近くに引っ越してきたんです。仕事は丸の内OLしてたんですけど、ちょっといろいろあって、辞めちゃったんです。今は有給消化してて、しばらくのんびりしようかなぁって思ってるんですけど。」
イトウさんとお互いの話をしていると、カウンターの中にある電話が鳴った。
「あ、僕が出ますよ。マスターかもしれない」
そう言ってイトウさんは立ち上がり、カウンターの中に手を伸ばして電話の子機を取った。
「もしもし。喫茶せせらぎです。あ、マスター?どうしたんですか?お店、誰も居ないんですけど。はい、火は止めました。・・・え!?誘拐!?ちょっと、何ですかそのツマラナイ冗談は・・・。今、ヤマさんと僕と、あとみどりさんってハジメテのお客さんと3人です。お店、どうするんですか?」
誘拐・・・?ヤマさんも、新聞を畳んでイトウさんの会話に聞き入っている。もちろん、マスターの声は聞こえないのだが。
「なんか、誘拐されたとかって。夕方の営業始めようと思って、外に看板出してたらいきなり目隠しされて車に乗せられて見知らぬところに運ばれて、倉庫みたいなところに連れてこられて、ほんとに映画やドラマさながらの誘拐現場だったとかって。今は逃げ出してコッチに戻ってきてるみたいんなんですけど・・・すぐ戻るから、それまでお店よろしく、って。信じられないけど、なんか、ほんとっぽかったです。」
「あんなオッサン誘拐して何になるんだ?物騒なもんだねえ。」
山さんが珈琲をひとくち啜り、そう言った。
「まぁ無事でよかったですね。でも今ちょっとおかしかったんですけど、電話出てマスターの第一声がスープを火にかけっぱなしだから止めてくれ、って。何よりもスープが気がかりなマスター」
イトウさんが、くすくす笑う。マスターってどんな人なんだろう。せっかくだから、マスターが戻ってくるまでくつろがせていただくことにした。無銭飲食で帰るわけにもいかないし・・・。
ギギィ、と入口のドアが鳴る。
「こんばんは・・・」
「あ、ニシヤマさーん。こんばんは。今ね、マスターが誘拐されて・・・」
イトウさんが、ニシヤマさんという女性に事情を説明し始めた。
みんな常連さんなんだなぁ・・・と羨ましく眺める。ニシヤマさんは、OLさんかな。イトウさんと同い年くらい。
「はじめましてー。ニシヤマメグミです。」
「おのでらみどりです。あ、珈琲かスープなら出せますけど、
ニシヤマさん、どうなさいますか?今みんなで珈琲とスープ、セルフサービスでいただいてたところなんです。」
「ありがとう。いただきます。珈琲もスープも。初めて来たのに、この人たちにこき使われちゃって、大変ねぇ。」
「いえ。楽しいですよ。お店乗っ取り計画です。」
私はニコニコとカウンターの中に入って準備を始めた。本当に楽しい。底なし沼ごっこの100倍楽しい。
「みどりちゃん、ここで働いちゃえば?」
気さくなニシヤマさんが、そう言ってくれた。
「ここのマスター、いいひとよ?。珈琲も料理も美味しいしさ。2,3か月前までアルバイトの大学生が居たんだけど、就職して辞めちゃったんだよね。就職は喜ばしい事なんだけど、マスターすんごく落ち込んじゃってさぁ。ほかの子を探す気にもなれないとか言って一人で忙しそうに切り盛りしてんだよね。みどりちゃんなら、良さそう。」
「え。ほんとですか。飲食店の仕事好きなんで、ここで働けたら嬉しいです。皆さんすごくいいひとだし、マスターもきっとすごくいいひとですよね。お店の雰囲気からして。」
「俺も混ざろうかな。新聞も読み終えちゃったし。」
ヤマさんもカウンター席に移動してきた。ヤマさん、イトウさん、ニシヤマさんがカウンター席に並んでいる。
「ほんと、いい仕事しますなぁ。マスターよりきびきびっとしてるね。」
「マスターには無いよね。この若々しさは。」
「やっぱココで働くべきだよー。すごく似合うもん。カウンターの奥に居るのが。」
みんなが口々にほめてくれる。
きっかけは、今日のラッキー星座占いなんかだったけど、散歩に出てみて本当に良かったなと思う。ささいなことなのだ。自分を底なし沼から救いあげてくれるのは。なんにもしなければ、沈んだまんま。でもちょっと動いてみればプッカリ浮かびあがれる。蟹だって泳げるんだ。
ギギィ、とドアが鳴る。
「ちょっと、きみたち、楽しそうじゃないかー」
想像通りの、優しそうな、おじさん。本物のマスターが帰ってきた。喫茶店ごっこ、ひとまず、終了。